囲碁教育屋のこぼれ話②―先生の意義―

ゲームって楽しければ良いものですよね。

でもそれならば……

ゲームを教える人、囲碁を教える人に何の意義があるのでしょうか?

私自身、囲碁の先生として某教室に雇われたとき、一番悩んだことでした。

経験談と私の答えについて今回はお話していきたいと思います。

分からないから習う

囲碁というゲームの厄介なところは、

「分からない」って言葉が蔓延しているところです。

人の質問に対して、「分からない」という言葉を容易く使うんですよ。

「この手は良い手ですか?」→「いやー、分かりません」

「この手は間違っていましたか?」→「分からないなー」

みたいに……。

あのね。それでは話が前に進まないんですよ。

無意味ではありませんかね、その会話。

実際、囲碁は「分からない」範囲がめちゃくちゃ広い、と言われているゲームです。

しかし、「分からない」ことを説明の言い訳やコミュニケーションの代替品に使ってどうするんですかね。

そういう逃避行為により、囲碁は歴史の長さの割に言語化が進んでいない分野となりました。さらには、AI文化の導入により、過去の路線よりも言語化がされなくなるでしょう。

形になってないからこそ、囲碁が「分からない」と言われるんですよね。余計に。

悪循環そのものですよ。

同時に、形になってないからこそ、それが教えてくれる人が必要になります。

かなり複雑な気持ちですけどね……。

先生としてやったこと

そんな需要の元に私は「囲碁の先生」になったわけですが、どういうことをやったのか、というお話をしていきます。

1つ目。

私は囲碁の先生として、「分からない」という解答は絶対に使いませんでした。

一般解が用意されているなら、それについて話しましたし、

一般解がなくても、見解くらいは出せるので、それを根拠と共に提示しました。

はっきり言うなら、「分からない」を答えに使う人間が「先生」をやってはいけませんよ。

「分からない」のを教えて欲しいから先生を頼ってるのに、それで「分からない」って答えたら、一体なんのための先生なのでしょうか?(苦笑)

もちろん、先生が「万能」なわけじゃありませんぜ。

分からなければ調べる。仮説を立てる。場合によっては人に頼る。そうやって、手を尽くして「答え」を用意するのが「先生」ですぜ。

まあ私の場合は、調べるほどのことなんてほとんどありませんでしたが。

2つ目。

「真剣に」向き合うことです。

今回事例として挙げている教室は、子供教室でありひたすら対局する教室でした。

対局相手として、私は一切の容赦をせず、子供たちと向き合いました。

最初の契約時に、「手加減をしない」ことを言われたこともありますが……。

子供は(大人よりも)繊細な生き物であり、ウソにすぐに気づきます。

子供だからと侮るのは、子供さんだけでなく、彼らを預けてくれている親御さんに対しても失礼に値します。

先生とは「模範」です。

学びの基本は、まねぶこと(真似て学ぶこと)です。

先生こそが、子供たちの手本となるべき存在でしょう。

そして、それが子供たちの「これから」の根底に眠る価値判断基準になるものだと思います。

同時に、「遊び」にこそ「真剣」になって欲しいと思ってました。

楽しめること、好きなことに「真剣」になれずして、どこで頑張れるのでしょうか。

勉強なんて以ての外でしょうね。

だからこそ、「真剣」に憧憬を抱いて欲しいと思いながら、「真剣」に子供たちと向き合いました。

3つ目。

私は囲碁の先生として、feedbackをかなりやった方だと思います。

feedbackというのは、単に局後の検討をやれば良いってことじゃないんですよ。

対局中は、目の前に座る子供の一挙手一投足を確認しながら、何を考えているのか、何を感じているのかを推測していきます。これにより、考えていることはもちろん、本人の調子(パフォーマンス)も確認します。

特に子供は気分の影響が強いので、機嫌が悪いときにあーだこーだと言うのは厳禁です。

場合によっては、迎えに来る親御さんとお話する際に、学校でのお話を伺うこともありました。やっぱり学校で上手くいかないときには、その子にとっての居場所になってあげるべきですからね。

対局後に話すときは、「意図」と「事実」のすりあわせをきっちり行います。

例えば、「模様を作りたい」と思っていたとしても、実際は「模様になり得ない場所」で模様を作っても意味がありません。

やりたいことが思い通りに行く……わけないのですから、きっちり盤面の情報を処理できなくちゃダメです。

同じ内容でも、子供と大人では同じ言葉で伝えることはありません。

子供の場合は、感覚に落とし込めるように話を進めていきます。

大人の場合は、理解に落とし込めるように話を進めていきます。

そうやって歯車が噛み合うように調整していきます。

話しすぎてもいけません。

話し言葉は耳に入りやすい言葉ですが、一方で頭に残りにくい言葉でもあります。

だから、3つ以上の話を一度にするのはあまり良いことだとは思いません。

複数の話をするときでも、可能な限りの似たような筋で話をすることを意識していました。

囲碁の例で考えて見ましょうか。「戦い」の話と「厚み」の話をするとしましょう。

絶対にダメなのが、例え話。敵兵が多いところで戦うのは避けましょう、敵兵が強いところには近づかないようにしましょう、とか言うと話の焦点がぼやけるんですね。

この例で使うべきキーワードは「石数」。石数を見て意味のある石数を増やすことが重要、ってところに話を持って行きます。同時に石数を増やしても意味のないところには打つ意味がない、という話を(感覚的に)理解できるように、実際に一緒に手を動かしてもらいます。

まあ、ちょっと話せるくらいの人ほど錯覚するんですよね。話せる角度が少し広がったがゆえに。でも、そんなものは要らないんですよ。むしろ語彙数の縛りを設けた方がよっぽど分かりやすい話になるんですよね。知識はつながりがないと、頭の中で簡単に崩壊しちまうものですから。

常勤かつ個別指導なら細かい進捗をチェックして……みたいなことをマメにやったのでしょうけど、非常勤ゆえにそれは無理と判断しましたね。ちょっと心残りでしたが……。

まとめ

私自身がやったことを見ていくと、「先生」らしさが出てますね。

改めて、最初の質問に戻りましょう。

ここまでを振り返って、先生の「意義」を端的にまとめると…….

(生徒の)ゲームの理解度を深めて楽しむ幅を広げること。純粋にゲームに向き合うことを教えること。

と言ったところだと思います。

理解度を深める、というのが重要で、これがなければ単なる「お友達」レベルになります。

昔、「友達親子」なんて言葉がありましたが、「友達先生」では意味がありません。

逆に教わる側は、上述の内容を基準に、先生を見つけるのも良いかも知れません。

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