最近、棋譜を対局中に取る人が増えてきました。

従来の碁罫紙ではなく、電子媒体(iPadなど)の普及がその背景にあります。

 

棋譜として自分の対局を記録することを否定するわけではありませんが、本当にその棋譜に意味があるのでしょうか?

 

今回は、アマチュアとしての「棋譜」の意味・使い方に着目してみましょう。

※棋譜=デジタルの棋譜として今回は話を進めます

 

棋譜の意味

 

まず、自分の対局の棋譜を取る意味を考えてみましょう。

 

 

◎自分の打った手が分かる

 

  1. 良かった点や悪かった点が分かる
  2. 全体の流れを見通せる(ミクロだけじゃなくマクロ的視点の活用)
  3.  他人に説明できる(見てもらえる)

 

 

自分の打った手が分かる、ということから、上述の3つが導出できるでしょう。

単に一つ一つ話しても面白くないので、「棋譜添削」の話と一緒に進めていきましょう。

 

※順番は1と3の両方の話→2の話という形で話が若干前後します。

 

棋譜添削と自己添削

 

筆者も(人を限定していますが)棋譜添削を行っています。

 

棋譜添削というのは非常に難しいものです。ライブイベントとか行ったことある人だと分かるかと思うのですが、生で見るのと、後で映像で再度見るのとでは受ける印象が全く異なります。その感覚の違いのようなものが棋譜添削に反映されます。

 

実際に打った本人にとっては「生のライブ」であるに対し、添削する側にとっては「ライブ映像(+観客の声が入っていない版)」になってしまうわけです。
そのため、筆者は生徒さんに必ず、「自己添削」を行ってから提出するように、と指示してます。できるだけ生の声を拾って、情報を補完するわけです。

 

そうなると、どうしても棋力が低い人だとこういう感想が出てきます。

 

「これ、自分が打った手なの?」
「こんなの私が打ったわけがない」

 

さて、もしこういう感想が含まれた棋譜を添削することに意味があるのでしょうか?

 

言うまでもなく、添削する意味がありません。

基本的なやり方として、一般論の知識を頭に入れたいなら、それは個別の棋譜添削ではなく、レクチャーや自己学習でやるべきです。棋譜添削というのはあくまで(一般論を中心とした学習では補完できない)エラーを一つ一つ潰す作業であるからです。エラーを自覚できないのなら、意味がありません。

 

少し棋力が上がると、こういう感想が出てきます。

 

「なぜこのように打ったのか分からない」
「時間に追われて打ちました」

 

この辺になれば、添削する意味が少しずつ出てきますね。

 

最初は代替案を知ることから始めたり…、時間に追われたのであれば、何が原因で時間をロスしたのかを考えるきっかけにもなります。

 

知識が身に付いてくると、論理的な自己添削ができるようになります。

 

「ここはダメだったので、こう打った方が良かったと思う」

 

こういう感じですね。さらに「なぜ?」の理屈がついてくるとbetterです。

 

以下のように理由付けがしっかりしていると、どこで論理上の間違いがあるかが分かりやすくなります。

 

「(客観的理由)によりこの手はマズい。そのため、(客観的理由2)に基づきこう打った方が良かったと思う」

 

本来、自己添削でこのくらいのことを言ってもらえると嬉しいのですが、これを求めるのはなかなか難しい話です(苦笑)。

そして、この辺の理由がきっちりしてくると、他人に添削してもらう理由がなくなってくるでしょう。

 

マクロ認識の容易性

 

ここまでは、1.良かった点や悪かった点の表現、つまり「部分の論理」のお話をしてきましたが、これだけだと実は添削の手間がかかりすぎます。

 

最初に述べたものを再掲しますが……。

 

◎自分の打った手が分かる

 

  1. 良かった点や悪かった点が分かる
  2. 全体の流れを見通せる(ミクロだけじゃなくマクロ的視点の活用)
  3. 他人に説明できる(見てもらえる)

 

 

続いて2.全体の流れの見通しについて見ていきましょう。

 

例えば、正しい手を正しいと認識しているか、という問題があります。

 

これをもちろん本人の感想から聞き出すのも手ですが、それでは一手一手を添削しないといけなくなって、添削する側も大変ですし、添削された側が確認するのも大変です。そのため、多くの場合、他の手に対する自己添削から推測するパターンを筆者は採用してます。

 

ここで良く出てくる問題がこれです。

 

 

 

【問題】
4つの繋がったプロセスA~Dを仮定したとき、そのプロセスの正しさが上述の図のようになったとき、プロセスA, Bを褒めて、プロセスDの修正方法を提示するのが望ましい。○か×か?

 

 

 

 

「点判断」するようなコンピュータに対してだったら、これは○です(コンピュータを褒めるというのも不思議な言い方ですねww)。

 

しかし、人間に対してだとこれは×のことが多いです。
人間は「線」で判断したり、記憶したりするんですよね(編注:ストーリー記憶などと呼ばれている類のものを指してます)。
それゆえに、プロセスA, Bの2つとプロセスDが分割されると正しく認識できないことが多いです。

 

というか、実際プロセスA, Bで褒めると「あとはプロセスDだけ修正すれば良い」と考え始めて、「プロセスDを治すにはどうすればよい?とにかくDだ!Dをどうにかするんだ!(以下略)」となるパターンが非常に多いです。そして、Dが上手く認識できなくなると、興味を失い、プロセスDのことを忘れてしまうんですよね。(※ちなみに、忘れた結果AとBだけ覚えて戻ってくることが多いです( ̄∇ ̄))

 

要するに「認識のフレームワーク」が完全にずれてしまうんですね。

 

枠組みがずれることで、Dだけ別物になってしまうわけです。

 

本当は、A~Dが1セットだとしても……。

 

※実は上述の褒め方をしても、問題ないタイプの人もごく少数います。一例としては、すでにマクロ認識が出来る人です。プロセスA, Bを褒められて、プロセスDの修正を迫られたとき、プロセスA~Dをセットに見る方法と、プロセスD単体(その全体配置も含めて)を見る方法の両方を並行で考慮できるタイプです。しかしながら、これができるようになるのはある程度熟練になってからのことがほとんどで、中途段階でこれができるのはかなり頭が切れる方です。今回の話の対象にはほぼ該当しないということで、上述のような記述としました。

 

通常、実際に打っているときは、一手一手に視点が集約しがちなところです(編注:これはある程度仕方がない側面があります)。

 

一方、(デジタルの)棋譜では、複数の手を1セットとして、線判断や面判断がしやすい環境が整ってます。

 

修正点であるプロセスDを把握するには、プロセスDそのものを知ること(プロセスDがプロセスA~Dの中でどのような配置にあるのかも含めて)と、プロセスA~Dのセットを知ることが必要になります。

 

このとき、セット把握が容易にできるのは(デジタルの)棋譜の利点です。もちろんこれは、一つ一つが疎かになりがちという欠点でもあります。

 

しかし、セットで把握すべきところが抜けているとしたら、その過程のどこか正しい手が打てたとしても、その手に再現性はありません。

 

再現性がないのだとしたら、それはとても褒められたものではありません

 

褒められたとしても「なぜ」褒められたのかが分からないわけです。

 

そんな褒め方をされても困りますよね……。

 

 

 

余談ですが、褒め方には2種類あります。

 

一つは、ゼロ点に対し、プラスのものを褒める方法。
もう一つは、マイナスからのプラスの変化量を褒める方法。

 

差異としては同じものに見えますが、筆者としては前者を採用したくありません。
理由は単純で、前者の方法では褒めるにしても限界があるからです。

 

成長段階にある人はプラスになっているパラメータが少ないです(←このことに善悪はありません)
そのプラスを一つ一つ褒めたところで、いつしか褒めることがなくなります。
後者(マイナスからの差分)の方法なら、教え導く範囲で克服して貰うことが可能です。

 

筆者個人としても、「できないことができるようになる」とか「できることがもっと上手くできるようになる」ことで褒めて貰いたいと思います。できて当たり前のことを褒められてもあまり嬉しくありません。

 

たまに、(前者の手法を用いて)無理矢理褒めている感満載の形で、褒めている方をたまに見かけるのですが、ものすごく悲しくなります。

 

あれは一体、誰のことを思って褒めているのだろうか、それが本当にその人のためになっているのだろうか、と見るたびに思います。

 

Discussion

 

ここまでの内容を一度整理します。

 

 

  1. 棋譜により自分が打った手を見直すことができる
  2. ミクロ(部分の手)とマクロ(手の流れ)を整理できる

 

 

非常におおざっぱに言うとこんな感じですね。

 

自分の打った手を見直すと、実際に打っているときの感触と、再度向き合ったときに受ける感触が異なります。

 

その感触の違いを(論理的に)分析することが、一局の反省として最も重要なことの一つです。

 

もし打った手を覚えていないとしたら、この違いを検討することはできませんし、自分の棋譜を見直してその反省を次に生かすことも困難です(要するに、再現性の問題です)。

 

ミクロとマクロを比較するにしても、ミクロで精一杯のところにマクロを考慮しようとしても、頭が飽和しきって覚えるどころか考える余力もない状態でしょう。

 

「打った手を覚えられないから」という理由で、打ちながら棋譜を取る方が居ますが(もしくは対局中に何度も盤面の写真を撮る方も最近はいますね)、筆者個人としてはあまり勧められるものではありません。

 

もちろん上述の理由もありますが、真剣に考える労力の一部を棋譜取りに費やしているわけですし、相手によっては不快感を与えることもあります(筆者としてはお仕事じゃないときは口に出しませんが)。

 

自分の棋譜を分析し反省し、自己研鑽に励むのは素晴らしいことです。

 

しかしながら、せっかく残した「自分の棋譜」が身にならないものとなるなら……、どこかで眠り、腐ってしまうとしたら……、その棋譜はとても褒められたものではありませんよね

 

この機会に今一度、「棋譜の意味」を考えてみてはいかがでしょう。

 

〔おわり〕