囲碁教育屋のこぼれ話―才能は才能を否定できない―

「努力すれば夢は叶う」なんて言葉はいつできたのでしょうか?

世の中に出ればそれが戯れ言だということはよく分かります。

囲碁で仕事(特に教えるお仕事)をしたいと思う人から、相談を昔ちょこちょこと受けました。

そういう方にアドバイスをしながら、思いました。

「きっとこの人は上手くいかないなぁ……」と。

ただそんな現実的なお話を口にしても、夢見る人たちは聞く耳を持ってくれません。

タイミングが悪すぎるのです。

私はそれを知っていたので、あえて口にすることは避けていました。

まあ、言わずにずーっと心の内に秘めていても、価値がありませんね。

無駄な犠牲を増やすだけです。

だから、教育特化の人間として、「才能」のお話を書いていきます

教える側に求められる「才能」のお話

経験―それは非必須項目―

教育は「経験」があれば「才能」なんて要らない、って数年前まで思ってました。

実際、「経験」そのものはかなり重要です。

囲碁はたくさんのハードルがあります。

布石、中盤、ヨセ……それぞれの中でつまずくポイントはいくつかあります。

だから、そのポイントを正しく捉えれば……

まあ、難しくないです(笑)

ハードルを認識することそのものは。

ただ、「経験」に頼りすぎるほど、例外に対応できないですし、

なによりもその人の抱えている問題をどのように解決して、どこまで「導く」のか、

を視野に入れることができてないパターンになりがちです。

「経験」は過去の実例としては有用ではあるのですが、

直接的な解決のファクターとしては、不足しているのです。

実は「経験」はなくてもどうにかなっちまうのです。

これは私が子供教室の先生をやって身にしみた経験です。

子供に碁を教えるなんてやったことないから、経験が豊富な人には適わないかなぁ……

と思っていましたが、慣れの問題はあれど、そんなことはありませんでした。

才能―「階段を降りる」こと―

「階段を降りること」

私は、数年前までこれを「才能」と認識していませんでした。

私は、できるようになるまでのプロセスを「階段」によく例えます。

教える側である自分は階段のずっと上の方にいます。

目の前にいる相手にはその階段の下の方にいます。

相手にとっては、階段の上の方の言葉を使っても伝わりませんし、

なによりもそこまでの道のりは不透明です。

そこで、私は階段を一歩ずつ降りていって、

相手のところまでたどり着いて、

道を示すのです。

イメージで語りましたが、一般化して言うなら、

「自分ができること」のプロセスを解体して、

それを「教えること」につなげることです。

自分が「できること」はなぜ「できる」のでしょうか?

どういうプロセスでできるようになったのでしょうか?

で、目の前に居る人はどういうタイプで、どんなプロセスの踏み方をすれば

「できる」ようになるのでしょうか?

一つ一つ見直しながら会話していけば、「できる」がどういうものなのかがよくわかります。

自分ゆえに「すっ飛ばしたプロセス」も必ず存在します。

そういうのを全部ひっくるめて、俯瞰して、より良い道のりを見つけるのです。

こういう作業を私は「当たり前」だと思っていたのですが、

他の人を見てみると、実はそーでもないんですよね。

経験に基づく定型句だけでどうにかしようとして、混乱を生んでいたり……

プロセスをすっ飛ばしているせいで、うまく理解できない状況だったり……

つまずく理解方法に対して、ツッコミを入れられていなかったり……

まあ、パターンは色々あります。

で、私のたどり着いた結論は、

結局「階段を降りられていない」んだなぁ……

ってことです。

応用―「見抜く」こと―

「階段を降りる」ことの応用編として1つ例を挙げますかね。

一局打って一緒に検討する。
これで大体その人の抱える問題が分かりますし、解決手段が明示できます。

実際に、とある学習塾の先生と飲んでいるときのお話ですが。

「生徒にテストを受けさせて、テストの取り組んでいる様子と、テストの答え合わせ(結果)を組み合わせれば、その生徒の抱える問題とその解決方法って大体分かりますよね?」

と聞いたところ……

ただ一言。

「解る」と。

この答えを予想して、(わざと丁寧に)質問したのですが、

そんなものは「先生」として当たり前だろう、という反応でした。

今回あえて応用編として、これを書いてますが、

できればこの程度は「先生」としては、出来て当たり前であって欲しいのです。

先に挙げた「階段を降りる」ことは前提なのです(「先生」としては)

実際、こっちは「階段を降りる」+「洞察力」みたいなものなので、

「階段を降りる」ことさえできれば、あとはボディランゲージなどの

非言語的コミュニケーションの読み取りなので、難しいものではありません。

囲碁の場合、対面で打てば大体分かるのですが、

些細な間違いを極力減らすために、コミュニケーションをとって必ず確認します。

あくまでも「見抜いた結果」の確認です。

推定してる学力レベルなどの背景がある程度合致してれば、ほぼ違えることはありません。

ただ、そういうことを決めつけると印象が悪いじゃないですか。例え当たっていたとしても。

なので、こうだと思ったんですよー、くらいで濁しながら、共感を得てもらうのがコツです。

子供が相手のときは、基本的に見抜いた内容を親御さんにお話しします。

下手すると親御さんよりも子供に詳しいのではないか、と思われることもあるのですが……

お願いですから、もっと子供と遊んでくださいよ(にっこり)

って率直に思います。

才能は才能を否定できない

「才能」という言葉の定義は、以下の通りです。

「才能」
―ある個人の素質や訓練によって発揮される、物事をなしとげる力。
『岩波国語辞典 第七版 新版 』より

先天的か後天的かは関係ないものですが、

まるでそれは生まれ持った能力で、持てないものにはどうしようもない……

才能という言葉は、そういうイメージを抱かせる言葉として扱われる側面があります。

先に示した「階段を降りる」という行為は、

先天的か、後天的かと問われれば、

後天的な技能として扱われるものの1つだと思っています。

親はそれほど頭の良い大学を出たわけでもない、と言ってこのように言いました。

「わからないことは、せんせいにききなさい」

私が小学校に入ったときからずっと親に言われてきた言葉です。

ものすごく基礎的なことかもしれません。

でも「なにがわからないのか」が分からないと質問さえできないのです。

自分が納得するまで考えることをやめない子供でした。

その習慣がついていたからこそ、私は「階段を降りる」ことができるのかと推測してます。

でも……

だからこそ……

この積み重ねを理解する私は思うわけです。

この才能の存在こそが「才能」のあり方を否定できない……と。